広島の旅④ 〜御朱印巡り〜

いよいよ広島旅最終回です。

私の趣味である御朱印巡りツアーを記事にしました。

今回の広島旅で集めた御朱印の紹介をしていきます。

目次

厳島神社

まずは以前の記事でも紹介しました厳島神社です。

厳島神社は、広島県廿日市市にある神社です。海上にある朱色の大鳥居が有名です。

厳島神社は、海の守護神として信仰を集めており、1996年に世界遺産に登録されました。

朝9時すぎに宮島に着いて厳島神社の参拝をしましたが日曜日ということもあり、とってもたくさんの方がいました。

神社のチケットを購入するところはちょうど行ったときは並んでいなかったのですが、帰りはすごい列でした。

神社の中を見ながら参拝もして、御朱印発見と思ったらすごい列でした。。。

ここの通りは全て御朱印の列になってます。

御朱印は一人の方が書いていたのでおそらく混んでいると思われます。

1時間くらい並びました。

御朱印帳をお渡しすると書いていただけました。

写真に影が入ってしまいました。。。

並んでもらえた御朱印からはパワーを感じます。

広島といえば厳島神社ですね。

千光寺

尾道にあるお寺千光寺です。

大宝山権現院千光寺は標高140m、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、大同元年・806年)弘法大師の開基で中興は多田満仲公と伝えられています。

境内中央の巨岩「玉の岩」は昔この岩の頂に如意宝珠があって、夜毎に海上を照らしていたのでこの地を「玉の浦」と呼ぶとか。
玉の岩の右には朱塗りの本堂、左には龍宮造りの鐘楼を配して、尾道の風光のかなめをなしている。

鐘楼の鐘は除夜の鐘でもおなじみのもの「音に名高い千光寺の鐘は一里聞こえて二里ひびく」と俚謡にまでうたわれている。

お守りなど販売している近くでこちらも御朱印帳をお渡しすると書いて頂きました。

お寺なのですが、御朱印があったのでいただくことにしました。

力強い感じですね。

スタンプがなかったらどこかわからないのですが、力強いです。

広島護国神社

ここからは最終日新幹線まで時間神社巡りをしてきました。

まずは、広島護国神社です。広島駅から車で15分ほどで着きます。

広島護国神社は、明治元年12月、明治維新の戊辰の役において陣没された高間省三命以下七十八柱を、二葉の里に新しく造営された「水草霊社」に奉祀されたのが創建です。

以来、大東亜戦争に至るまでの幾多の事変戦争において、戦没されたご英霊およそ九万二千余柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となられた動員学徒、女子挺身隊等約一万柱を含む)の神霊をお祀りしています。

昭和9年、御社殿の老朽化に伴い、西練兵場(旧市民球場の辺り)の西端に新社殿を造営し移転されました。同14年に広島護国神社と改称されましたが、昭和20年8月6日、至近距離上空で原子爆弾が炸裂し、御社殿すべてを焼失しました。

その後同地に小祠を設けて祭祀を続けてきましたが、広島市の復興に伴い移転を余儀なくされたため、復興奉賛会が結成され県民より淨財を募り昭和31年秋現在の広島城跡に新社殿が造営され、待望の復興を遂げました。

手書きで御朱印帳に書いていただきました。

朝早めにきたのですが、海外の方が神社ツアーのようなものをしていたようでした。

神社の作法を英語で紹介していました。

楽しそうなツアーだったので英語は分かりませんが、一緒に参加したいなと思ってました。笑

別枠広島城

神社ではないので別枠にさせていただきます。

護国神社の隣には広島城があります。

広島城にも御城印というものがあり、紙でいただきました。

御城印帳というものもあるようで、日本の歴史を学びながらお城も一緒に巡っていきたいです。

今後は、神社と一緒に城も巡って行けたらいいなと感じました。

東照宮

続いては広島駅に一度もどり、ホテルのチェックアウトなどしてから徒歩で行ける東照宮へ向かいます。

広島東照宮は徳川家康公を御祭神にお祀りした神社です。家康公薨去(こうきょ)後33年忌に当る慶安元年(1648年)、当時の広島藩主浅野光晟(みつあきら)公(浅野家第四代)によって、広島城の鬼門(北東)の方向に当たる二葉山の山麓に造営されました。

光晟公の生母は、家康公の第三女、振姫(ふりひめ)であったことから、祖父家康公の御遺徳を敬慕すると共に、城下町の平和を願って神霊を祀りました。

歴代藩主、社領三百石を付し、広島周辺の崇敬を集め、春秋の祭礼の外、家康公薨去後50年に当る寛文6年(1666年)以後は、五十年毎に盛大な祭典が行われました。

社殿は、「二葉山山麓に位置し、観望の美麗なるは、毛利氏広島に築城以来、第一のもの」と云われていましたが、昭和20年8月6日の原子爆弾(爆心地から約2,200m)の熱風により、桧皮葺本殿、中門、瑞垣、拝殿は焼失。

現在の社殿は、昭和40年4月、家康公薨去後350年祭を記念して再建されました。

奥にある長い階段を登ります。

こちらは書き置きのものでした。

台紙が特殊な感じでした。辰年の辰がいます。

こちらは確か今年限定だったと思います。

御朱印もその年限定などもあり楽しいです。

また、月ごとに違うものがあったりするところもあるので何度行っても楽しめます。

鶴羽根神社

鶴羽根神社は、東照宮から徒歩10分くらいです。

建久年間(1190~1199年)に、源三位頼政公(安芸國加茂群西條郷領主)の室菖蒲ノ前が芸州知行せられる折の御遺言によって、元久年間(1204~1206年)に社殿を建立し、御祭神を勧請したことが始まりと伝えられています。

昭和20年(1945年)の原爆投下の大惨事により、社殿一切は倒壊しましたが焼失を免れ、宮司を先導に氏子諸氏の熱意と努力を以って規模を縮し乍も一早く余燼の中から再建されました。

書き置きのものを頂けます。

神社の人は比較的少なくゆっくり見ることができました。

明星院

お寺ですが、明星院です。先ほどの鶴羽根神社から歩いて10分くらいです。

明星院は、広島市の東北に位置し、二葉の里の北端にあり、背景には緑水したたる二葉山を負い、前には太田川の清流を臨み、境内およそ二千二百五十余坪、古松老木鬱蒼として繁茂し、森々として自ら荘厳の風趣を有します。

月光山大日密寺と号する真言宗御室派の名刹で、もと南光月素月山妙壽寺と呼ばれていました。

お出迎えもすごいです。

書き置きの御朱印が置いてあるので自分でお金をおいていただくセルフタイプでした。

神社へ行くときは小銭の準備が必須です。

緑やピンクなどがあり、カラフルで素敵です。

日にちは自分で入れました。

饒津神社(にぎつじんじゃ)

さらに歩くと饒津神社です。明星院から5分くらいで着きます。

饒津の意味

饒…じょう・豊・食物やものが十分である。土地が肥えている。

津…港・船着場・川辺・海辺。

「広島の町が物が豊かな水の都となるように」

原子爆弾との関わり

昭和20年8月6日午前8時15分、原子爆弾が炸裂。
爆心地より1,800メートル。全ての建物は焼失し、石造物と十数本の松のみが残る。
石造物の手水鉢や唐門周辺の敷石が欠落・ひび割れ・変形しているのは、それぞれ手水舎の建物や唐門が焼け落ち、その炎熱による損傷であり、石灯篭の被害も見える。昭和59年、本殿拝殿社務所などを復興したが、傷んだ石造物は補修せず原爆被災の証としてそのまま残した。
平成15年には饒津神社の歴史とともに歩んだ被爆松の最後の一本が枯れ、切株の一部は保存した。

鳥居が木でできており、歴史を感じられるような色合いでした。

お金をボックスに入れて書き置きの御朱印をいただきます。ペンもあったので自分で日付を入れます。

2種類あったので最後だったので2種類いただきました。

今回の旅の御朱印

全部で8つ(お寺を含む)の御朱印巡りができました。

お城でも1つお城巡りができました。

広島でかなりたくさん御朱印巡りができました。

次の旅行先でも神社やお寺を巡っていきます。

まとめ

今回の広島の旅ではたくさんの神社やお寺の参拝に行けました。

御城印というものも知ることができ、また趣味が一つ増えました。

神社やお寺に行くとパワーをもらえるのでまた神社やお寺へ行ってパワーをいただきたいと思います。

今回様々な神社へ行って歴史も学ぶことができました。

これからも全国各地の神社へ行ってきます!

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