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夫が日帰りで手術をした日。ぶどうを食べ比べながら気づいた、当たり前で愛おしい日常のこと

日曜日、いかがお過ごしでしょうか。 平日慌ただしく仕事や家事に追われていると、日曜日のこの静かな時間帯は、ふっと肩の力を抜いて最近あったことやこれまでの日々に思いを巡らせる貴重なひとときになりますよね。温かいお茶でも飲みながら、ゆっくり読んでもらえたら嬉しいです。

実は8月の終わりに、夫が日帰りで小さな手術を受けました。 病名は「粉瘤(アテローム)」。皮膚の下に袋状のものができ、そこに老廃物が溜まってしまう良性の腫瘍を切除する手術です。命に関わるような大きな病気ではありませんし、入院の必要もなく、手術そのものも局所麻酔を含めて30分足らずで終わるような、いわゆる「小手術」でした。お医者さんからも「よくある処置ですから心配いりませんよ」と説明されており、家族への特別な事前説明などもありませんでした。

それなのに、「手術をする」「麻酔をかける」という言葉を夫の口から聞いた瞬間、私の心はどこかドクンと嫌な跳ね方をして、一瞬「え?」とフリーズしてしまったのを覚えています。

どれほど医学的に「簡単で安全な処置」と言われても、自分にとってかけがえのない大切な人の体にメスが入るというのは、想像以上に心がざわつくものです。ましてや家族の手術に立ち会うのが初めてだったこともあり、胸の奥がキュッと締め付けられるような緊張感と不安が、じわじわと込み上げてきました。

あれから日が経ち、傷口の強い痛みも引いて、我が家にはまたいつもの生活が戻りつつあります。 もし今、ご家族やパートナーが似たような日帰り手術を控えていてソワソワしている方や、毎日の忙しさに流されて大切な人との時間を少し雑にしてしまっている方がいたら、私のこの不器用な体験談が何かのきっかけになれば幸いです。

離れて過ごした手術当日。電車のなかで青ざめた帰り道

手術当日、私はどうしても仕事を休むことができず、出勤していました。 夫からは「本当にすぐ終わるから、仕事を休む必要なんてないよ」と言われていましたし、私自身も頭では「大げさに騒ぎ立てるようなことじゃない」と言い聞かせていました。けれど、朝から職場の時計の針が進むたびに、「今ごろ病院に着いたかな」「そろそろ処置室に入った頃かな」と、目の前の仕事に向き合いながらも、意識のどこかでずっと夫のことが引っかかって離れませんでした。

お昼の休憩時間になり、急いで更衣室でスマートフォンを開くと、手術前の夫からLINEが入っていました。 「これから呼ばれそう」 たった一行の短いメッセージ。いつも通りの淡々とした言葉遣いでしたが、画面越しにどこか緊張している夫の空気感がひしひしと伝わってきました。「大丈夫だからね、リラックスしてね」と返信を送り、午後の業務に戻りました。

その後、夫からの返信は途絶えました。 「あぁ、順番が来て手術が始まったんだな」と察し、あとはただ何事もなく無事に終わることだけを祈る時間でした。

今回は日帰り手術のため、処置が終わったら一人で病院を出て、一人で電車に乗って帰宅しなければなりません。「麻酔が切れて強い痛みが出たら、自力で歩いて帰ってこられるんだろうか」「途中で気分が悪くなったりしないだろうか」と心配は尽きませんでした。けれど夕方になって、「無事に終わったよ。痛み止めを飲んでゆっくり帰るね」と連絡が入り、まずは大きく胸を撫で下ろしました。

普段の我が家は、「仕事が休みの人が夜ご飯を用意する」という暗黙のルールになっています。 けれど、さすがに今日は体にメスを入れた日です。 「ご飯は絶対に作らなくていいからね。とにかく家で横になって休んでて。何か食べたいものを買って帰るから」と伝え、私は退勤後、急いで最寄り駅行きの電車に乗り込みました。

ところが、その帰り道の満員に近い電車内でのことです。 LINEで「どんな感じの手術だったの?痛くなかった?」と夫に経過を聞いていたのですが、送られてくる文面を読んでいるうちに、頭の中で無意識にその情景をリアルに映像化してしまったのです。

局所麻酔の注射が皮膚に入っていく感覚や、皮膚を切開して患部を取り出し、糸で縫合していく様子。 生々しい想像が頭の中を満たした瞬間、急に胸のあたりがスーッと冷たくなり、猛烈な吐き気と冷や汗が吹き出してきました。

「痛そう……どうしよう、すごく気分が悪くなってきた……」

手術を受けた本人ではなく、ただ話を聞いていただけの自分が、想像だけで血の気が引いて倒れそうになってしまったのです。立っているのも辛くなり、途中の駅で降りてホームのベンチで休もうかと本気で迷いました。 でも、「ここで電車を降りてしまったら、スーパーに寄る時間が遅くなって、お腹を空かせている夫のご飯が遅れてしまう」という思いが頭をよぎり、吊り革を両手で強く握りしめながら必死に深呼吸を繰り返しました。

なんとか最寄り駅まで耐え抜き、改札を出て冷たい夜風を胸いっぱいに吸い込んだとき、ようやく少しずつ呼吸が落ち着いて、血の気が戻ってきたのを覚えています。想像だけで貧血を起こしかけるなんて、自分でも驚くほどの動揺ぶりでした。

玄関先でのすれ違いと、テーブルに並んだ二つのぶどう

駅前のスーパーへ寄り、夫からリクエストされた消化の良さそうなものや、自分の夜ご飯の買い出しを済ませました。 お会計の前にふとスーパーの果物コーナーを通りかかったとき、「手術を一人で頑張って耐えてくれたんだから、何か美味しいデザートを買って帰りたいな」と足が止まりました。

棚には、初秋の果物がずらりと並んでいました。 なかでも目を引いたのは、鮮やかな黄緑色に輝くシャインマスカットと、濃い紫色に熟した大粒の巨峰でした。 「どっちがいいかな……シャインマスカットはちょっと贅沢すぎるかな、でも今日は巨峰が本当に美味しそうだな」 売り場の前でしばらく真剣に悩んだ末、私は旬の甘い香りが漂う立派な巨峰を一房カゴに入れてレジへ向かいました。

両手にずっしりと重たい買い物袋を提げて、暗くなった夜道を歩いて自宅へと向かっていたときのことです。 家のほぼ目の前の通りに差しかかったところで、前方から見慣れた我が家の車がゆっくり走ってくるのが見えました。

なんと、手術を終えたばかりの夫が、駅まで私を車で迎えに来てくれていたのです。

改札を出たあとの連絡がうまく噛み合わず、私はすれ違いで普通にてくてく歩いて帰ってきてしまっていました。 助手席の窓がスーッと開き、「迎えに来たのに歩いて帰ってきちゃったの!」と笑う夫。

「痛み止めを飲んだから全然痛くないよ。買い物袋が重いと思ってさ」と言う夫の顔を見た瞬間、その優しさが飛び上がるほど嬉しい反面、私の胸の中は複雑な感情でいっぱいになりました。

「迎えに来てくれた気持ちは本当にありがとう。でも、皮膚を切って縫ったばかりなんだから、お願いだから家でおとなしく横になっててよ……!」

嬉しいのと、心配からくる怒りと、無理をさせてしまった申し訳なさがぐちゃぐちゃに混ざり合った、なんとも言えない気持ちでした。せっかくの気遣いに対して少し口うるさく言ってしまったことにも、自己嫌悪が募ります。

けれど、そんな私の複雑な表情をよそに、夫は助手席に置いてあった小さなレジ袋を指差しました。 なんと夫も、病院からの帰り道にスーパーへ寄って果物を買ってきてくれていたのです。 袋の中から出てきたのは、立派なシャインマスカットでした。

リビングのテーブルの上に並んだ、大粒のシャインマスカットと、私が買ってきた巨峰。 「まさかのぶどう被りだね」と二人で顔を見合わせて笑ってしまいました。

二人で並んで食卓につき、お互いが買ってきたぶどうを食べ比べました。 口いっぱいに広がる爽やかな甘みと果汁を味わいながら、朝からずっと張り詰めていた心の結び目が、ふうっと音を立ててほどけていくような感覚がありました。夫が目の前で笑いながらぶどうを口に運んでいる。ただそれだけの光景が、今日一日のすべての疲れや不安を吹き飛ばしてくれました。

痛みに耐えながら過ごした、術後のリアル

翌朝、夫は朝一番で傷口の経過を診てもらうために病院へ行き、消毒を終えるとそのまま仕事へ向かいました。

粉瘤の切除手術は、皮膚科や形成外科ではとてもポピュラーな処置です。入院も必要なく、翌日から普通に出勤できるくらいの手術だと事前に聞いてはいました。 けれど、実際に隣で見守っていると、「いつも通り」とは程遠い大変さがありました。

処方された痛み止めをしっかり飲んでいれば激痛は抑えられるようですが、薬の効果が切れてくる時間帯になると、ズキズキとした鈍痛が波のようにぶり返してきます。 立ったり座ったり、歩いたり、日常のささやかな動作で傷口の周りの皮膚が引っ張られるたびに、「痛っ」と小さく顔をしかめる夫。その姿を見るたびに、私は何も代わってあげられないもどかしさと無力さを感じていました。

健康なときには全く意識することのない日常の動作、例えば椅子から立ち上がることや、靴下を履くこと、寝返りを打つことすら、皮膚を切開した直後の体にとっては一つひとつが慎重を要する動作になります。 私ができたことといえば、手の届かない場所にある物を取ってあげたり、できるだけ重い荷物を持たせないようにしたり、身体に負担がかからないように座布団やクッションを整えてあげることくらいでした。

それでも夫は弱音を吐くこともなく、痛み止めを相棒にしながら、なんとか術後最初の数日間の仕事を乗り切ってくれました。 1週間ほど経つと、ズキズキするような強い痛みはほぼ引いて、日常生活の動作もずいぶん楽になっていきました。傷口が治っていく過程で少し痒みやつっぱり感はあるようですが、普通に歩けることのありがたさを夫婦で噛み締めています。

静かな部屋で知った「寂しさ」の正体

夫の手術の前後の期間、実は我が家は生活リズムが大きくズレていました。 夫の出張やシフト勤務の変更が重なり、同じ家に住んでいるのに、顔を合わせる時間がほとんどない日々が3週間ほど続いていたのです。

いつもなら一緒に食べる夜ご飯を、一人静かな部屋で食べる。 夫に「遅くなるから明日の仕事に響かないよう先に寝ててね」と言われて、一人で暗い寝室に入って布団をかぶる。 在宅ワークの日などは、パソコンの画面に向かったまま、朝から晩まで誰とも声を出して会話をしないまま一日が終わることもありました。

出勤した日であっても、職場で交わすのは「おはようございます」「お疲れ様です」といった最低限の挨拶や業務連絡だけ。それぞれの作業に没頭しているため、心を許した雑談なんてほとんどしません。ふと、「今日、私まともに誰とも笑って話してないな」と気づく瞬間があり、そのたびに胸の奥にすきま風が吹くような孤独感を覚えました。

一人で過ごす夜は、不思議なほどご飯を作る気分にもなれませんでした。 自分一人のために野菜を切ったり鍋を使ったりするのが急に面倒くさくなってしまって、結局スーパーで買ってきたお惣菜や納豆ご飯で済ませてしまう。 誰かと「これ美味しいね」「今日こんなことがあったよ」と言い合いながら食べるご飯と、静かな部屋で黙々と食べる一人のお惣菜。同じ食事でも、味の感じ方や温かさまでこんなに違うものなのだと思い知らされました。

そして、夫がいない家で一人パソコンに向かってブログを書いているとき、ふと不思議な感覚になったのです。

「私って、こんなに寂しがり屋だったっけ?」

独身の頃の私は、一人で買い物に行くのも、一人で外食するのも、一人で旅に出るのすら平気で、むしろ自由気ままな一人時間を心地よく楽しんでいたはずでした。誰かに依存することもなく、自分一人の世界を完結して生きられる人間だと思っていたのです。

それなのに、夫がいない静まり返ったリビングにいると、なんだか部屋の空気まで冷たく感じられて、胸の奥がぽっかりと寂しくなってしまう。夫がいない寂しさを誤魔化すために、必死でブログのキーボードを叩いているんじゃないかと思えてくるほどでした。

そのとき気がついたのです。 私が寂しがり屋になったのではなく、夫と一緒に暮らす中で、私の「当たり前」の基準が変わったのだと。

仕事から帰ってきたら部屋に明かりがついていて、「おかえり」と言い合えること。 同じ食卓を囲んで、くだらないテレビや動画を見ながら「これ面白いね」と笑い合えること。 同じ空間に誰かの温もりがあること。

そんな温かい日常が知らず知らずのうちに心を満たしてくれていたからこそ、それがふっと抜け落ちたときに、猛烈な寂しさを感じるようになっていたのです。一人でいることが平気だった昔の自分には戻れないくらい、夫という存在が私の生活の真ん中にしっかりと根付いていたのだと気づかされました。

何気ない週末に感じた、健康と時間の重み

術後、最初の週末。 実は私の誕生日が近いこともあり、以前の私なら「せっかくだからどこか遠くへお出かけしようか」と計画を立てていた時期でした。 けれどこの時は、夫の体の回復を何よりも最優先にして、「家でとにかくゆっくり過ごす週末」に決めました。

傷口の痛みもだいぶ落ち着いてきたところで、気分転換に近所へ外食に出かけました。 食後は夫の歩くペースに合わせて、いつもの街並みをゆっくりと散歩し、近くの神社へお参りに行きました。

抜けるような初秋の青空の下、並んで歩く歩道。 いつもより少しゆっくりな足取りで、神社の静かな境内で手を合わせ、他愛もない話をしながら歩く時間。

特別な遠出をしたわけでも、豪華なお祝いをしたわけでもありません。 けれど、ただ隣に夫がいて、元気に歩いていて、一緒に美味しいご飯を食べて笑っている。その事実が、どんな贅沢よりも尊く、幸せなことに思えました。

もし体が元気じゃなかったら、こうして近所を散歩することすらできません。 美味しいご飯を食べに行くことも、くだらないことで笑い合うことも、すべては「お互いの体が健康である」という土台の上にかろうじて成り立っている奇跡なのだと、今回の手術を通じて身にしみて分かりました。健康を失って初めてそのありがたみに気づくとはよく言われますが、まさにその通りでした。

あなたの隣にある「当たり前」を、どうか愛おしんでほしい

これから先、私たち夫婦が何歳まで生きられるのか、あとどれくらいの時間をこうして一緒に笑って過ごせるのかは、誰にもわかりません。 明日も明後日も、同じような平和な日常が続いていく保証なんて、本当はどこにもないのです。

私たちは普段、日々の忙しさに追われていると、目の前にある「いつも通りの毎日」を無意識に当たり前だと思い込んでしまいます。 疲れているからと適当な返事をしてしまったり、些細なことですれ違ってイライラをぶつけてしまったり、「いつでも話せるから」と向き合うのを後回しにしてしまったり。喧嘩をして意地を張ってしまうことだってあります。

でも、失いかけて初めて気づくのでは、きっと遅いのだと思います。

今日、隣にいる大切な人が笑ってくれていること。 「いってらっしゃい」「おかえり」と言葉を交わせること。 一緒にテーブルを囲んで、美味しいねと言い合えること。

そんな何気ない一瞬一瞬が、本当は二度と戻らないかけがえのない奇跡の連続なのだと、今回の夫の手術とすれ違いの日々が私に教えてくれました。

今週、もしあなたの大切な人が目の前にいるなら、いつもより少しだけ優しい声で声をかけてみてください。 そして、今ある穏やかな日常を、両手でぎゅっと抱きしめるように大切に過ごしてほしいなと思います。

明日からまた新しい一週間が始まります。 皆さんもどうかご自身の体を大切に、温かい夜をお過ごしください。