いつもの通勤電車、ガタゴトと規則正しく揺れる車内で、私はスマートフォンの画面をじっと見つめていました。
周りを見渡せば、眠そうに目を閉じている人、無表情にゲームの画面をタップしている人、SNSをスクロールしている人。どこにでもある、いつもの退屈な朝の光景です。そんなありふれた日常の中で、私のスマートフォンの画面の中だけは、まるで別世界のような、異常なほどの熱量と痛切な感情が渦巻いていました。
映し出されていたのは、ワールドカップ(W杯)の激闘の末に、ピッチで崩れ落ちるようにして泣いている一人の男の姿。クリスティアーノ・ロナウド選手でした。
世界的なスーパースターであり、富も名声もすべてを手に入れたはずの彼が、まるで迷子になった子供のように顔をくしゃくしゃにして、止めどなく涙を流しています。スペインとの死闘に敗れ、彼の最後のワールドカップが終わった瞬間でした。
実は、私はサッカーに詳しいわけではありません。オフサイドのルールだって怪しいですし、普段から熱心にリーグ戦を追っているわけでもないのです。
ただ、サッカー好きの夫がテレビにかじりついているのを、リビングのソファの端っこで「へえ、今W杯やってるんだね」「あの国強いんだね」なんて言いながら、ポテトチップスを片手に、なんとなく一緒に眺めていたくらいの、典型的な「にわかファン」でした。
夫がゴールに歓声を上げ、失点に頭を抱えている横で、私はどこか冷めた目で見ているところがありました。「そんなに熱くなって、明日仕事なのに疲れないのかな」なんて、心のどこかで他人事のように思っていたのです。
そんな私が、一人で電車のシートに座りながら、画面の中のロナウド選手の涙から、どうしても目が離せなくなってしまったのです。
胸の奥が、バクバクと妙に激しくざわざわしました。 「あんなに泣くなんて、一体どんな気持ちなんだろう……」
負けて悔しい、という単純な言葉だけでは到底片付けられない、ものすごい熱量の塊のようなものが、小さな画面を飛び越えて、私の心に津波のように押し寄せてきました。その涙の理由を考え始めたとき、私の思考はいつの間にか、サッカーの枠を完全に飛び越えて、自分自身のこれまでの生き方、そしてこれからの毎日のあり方へと向かっていました。
4年に一度という、タイムリミットの残酷さ
「別に、W杯が終わったって、これからもサッカーはできるじゃない」
冷たい言い方かもしれないですが、最初は純粋にそう思ったんです。ワールドカップという大会が終わっても、彼が所属するクラブチームの試合はこれからも続くし、サッカー選手を引退するわけではありません。また明日から、大好きなサッカーをすればいいはずなのに、どうしてあんなに「この世の終わり」みたいに絶望して泣けるのだろう、と。
でも、一呼吸置いて、彼らの置かれている状況を少し考えてみて、そしてロナウド選手のことを調べていくうちに、自分の考えがいかに浅はかだったかに気づかされ、恥ずかしくなりました。
ワールドカップは、4年に一度しか来ないんですよね。
4年。言葉で言うのは簡単ですが、アスリートにとっての4年は、私たちの4年とは比べものにならないほど重く、長いものです。20代の、心も体もギラギラした全盛期なんて、長いサッカー人生の中でせいぜい1回か2回しかワールドカップの周期と重なり合うことはありません。
30代を迎え、ベテランと呼ばれる年齢になったレジェンドたちにとって、「次の4年後」の舞台に自分が同じパフォーマンスで立てているかどうか。それが肉体的にどれほど奇跡に近いことか、彼ら自身が一番よく分かっているはずです。
今回の大会では、モドリッチ選手も、ネイマール選手もそうでした。年齢的に「これが人生最後のワールドカップになるかもしれない」という、あまりにも重い覚悟を背負って、国の代表としてピッチに立っていたのです。
彼らにとってのW杯は、ただの「知名度の高い大きな大会」ではありません。これまで人生のすべて、青春のすべて、24時間のすべてを捧げて、自分を極限まで追い込んできた日々が、報われるか、あるいはここで無慈悲に断たれるかという、4年に一度の「人生の答え合わせ」の場所なのだと思います。
もっとこの仲間とサッカーがしたかった。このユニフォームを着て、この最高の舞台でもっと上へ行きたかった。その強い想いと、もう二度と戻らない全盛期の時間への未練が、あの尋常じゃない涙に変わっていたのですね。
彼らが命を懸けて戦ってきたのは、目の前の試合相手だけではありませんでした。「時間」という、誰にでも平等に、そしてあまりにも残酷に過ぎ去っていくものとも、彼らは孤独に戦っていたのだと気づかされました。
ロナウド選手のプロ意識と、私の「省エネな毎日」
気になって、帰りの電車でもロナウド選手についてさらに詳しく調べてみました。そこで目にしたのは、一般人の私から見れば「狂気」とも思えるほどの、徹底されたストイックなプロ意識でした。
毎日の過酷な筋力トレーニングやランニングはもちろんのこと、驚いたのはその徹底的な食事管理です。何年もの間、炭水化物や脂質、砂糖を厳格に制限し、ブロッコリーや鶏胸肉を中心としたメニューを続けているそうです。かつて記者会見の席で、目の前に置かれたコーラのボトルを遠ざけ、「水を飲おう」と言い放ったエピソードは有名ですが、すべては「サッカーで最高のパフォーマンスを出すため」だけに、自分の生活、いや、人生のすべての時間をコントロールしています。
プロだから、一生懸命やるなんて当たり前。お金をたくさんもらっているんだから、それくらいして当然。 そう言って片付けてしまうのは簡単です。
けれど、スマートフォンの画面をパチッと消して、真っ黒になった画面に映った自分の、どこか締まりのないマヌケな顔を見たとき、私は思わず深いため息をついてしまいました。
「ひるがえって、私は一体、何をしているんだろう……」
世の中の会社員の中には、彼らと同じように強いプロ意識を持って、寝食を忘れるほど仕事に情熱を注いでいる立派な方もたくさんいます。でも、私は完全にその逆です。
毎朝、満員電車に揺られながら「早く定時にならないかな」「今日のお昼ご飯は何を食べようかな」と考え、目の前の仕事を「上司に怒られない程度に、波風立てずに、無難にこなす」ことだけを目標にしています。一生謙命なんて言葉からは、地球の裏側くらい遠い場所にいます。
もし今、上司から「明日からもう会社に来なくていいよ」と言われたり、何かの拍子に今の仕事を辞めることになったりしたら、私はどう思うでしょうか。
悲しいなんて1ミリも思いません。悔し涙なんて、逆立ちしても出るわけがないです。 むしろ、「やったー!明日からもうあの面倒な人間関係からも、朝の満員電車からも解放されるんだ!」と、満面の笑みで万歳三唱する自信があります。解放感でスキップして家に帰るかもしれません(笑)。
それが悪いことだとは思っていなかった。仕事は生活費を稼ぐための単なる手段であり、そこそこにこなして、お給料をもらって、プライベートをのんびり楽しめればそれでいい。それこそが「賢い大人の生き方」だとすら思っていたんです。
だけど、あの涙を見た後だと、自分のその「そこそこに安全な毎日」が、急にひどく退屈で、モノクロで、色褪せたものに思えてきてしまいました。
全力でやるからこそ、負けたときに「自然と涙が出る」
画面の向こうのロナウド選手を見ていて、ハッと気づいたことがあります。
それは、「全力でやったからこそ、負けたときに、あれほど自然と涙が溢れ出てくるんだ」ということです。
悔しいから泣く、悲しいから泣く。もちろんそうなのですが、それ以前に、自分の持てるエネルギーの100%を注ぎ込んで、一滴の余力も残さないほど出し切ったからこそ、その糸が切れた瞬間に涙として身体から溢れてしまう。涙って、自分の内側にある「熱量の証」そのものなんだなと思ったのです。
翻って、今の私の毎日はどうでしょうか。 なぜ仕事で失敗しても、上手くいかなくても涙が出ないのか。
その理由は明確でした。私はいつも、全力ではなく、どこか「力を抜いて」生きているからです。
傷つかないように、疲れないように、あらかじめ80%や60%くらいの力にセーブしている。心のどこかで「本気出してないだけだし」と言い訳できる余白を、無意識に残してしまっているのです。最初から力を抜いているのだから、結果がどうあれ、心が激しく揺さぶられることもなければ、自然と涙がこぼれるはずもありません。
大人になり、20代を経て、30代を迎えた今。いつの間にか私たちは、「全力でやって、失敗して、大泣きする」という、どこかダサくて不器用な生き方を、器用に避けるようになってしまいます。
「期待しすぎたり本気になったりすると、ダメだったときに自分が傷つくから」
そうやって身につけた省エネモードは、傷つかないための防衛本能としては、大正解かもしれません。でもその結果、何に対しても心が震えない、涙も出ない、ただ淡々とカレンダーを消化していくだけの毎日が残ります。会社を辞めるときに「嬉しい」とすら思ってしまうのは、その仕事が嫌いだからというだけでなく、自分の熱量を1ミリも乗せていないからなんですよね。
いつも全力では体力が持たない。だから「一つだけ」選ぶ
でも、じゃあ明日からすべてのことに24時間100%の全力で向き合えるかと言われたら、それは絶対に無理です。私にはそんな体力も精神力も持ち合わせていません。
朝早く起きて、家事をして、会社へ行って、人間関係に気を遣って、帰ってきてご飯を作って……。ただでさえ生きているだけでエネルギーを消費する30代の日常です。仕事も、家事も、人間関係も、趣味も、全部を全力で走っていたら、あっという間に心も体も壊れて、燃え尽きてしまいます。力を抜いて「そこそこ」にこなす省エネモードだって、大人が社会を生き抜くためには、絶対に持っておかなければいけない大切なスキルです。
だからこそ、私はこう思いました。
「全部を全力にする必要はない。けれど、人生の中で、一つくらいは全力で向き合うものがあってもいいんじゃないかな」と。
会社員の仕事は、これからも「生活の基盤を支えるためのもの」として、適度な心の距離感を保ち、上手に力を抜いて続けていく。それはそれで、冷徹で現実的な大人の生き方として間違っていません。
だけど、自分の人生のすべての領域を、そんな「そこそこ」や「省エネ」だけで埋め尽くしてしまうのは、もう終わりにしたいなと思ったのです。どこか1箇所くらい、野生の熱量を取り戻し、自分の100%をぶつけられる場所を、自分で選んで作ってみたいのです。
私にとってのその舞台は、きっとこのブログです。
誰に強制されたわけでもなく、自分の意思で「やりたい」と思って始めた、大切な私の居場所。
今までの私は、このブログの領域でさえも「仕事が忙しかったから」「疲れたから」と言い訳を作って、無意識に力を抜いていました。本気でやって、もし誰にも読まれなかったらカッコ悪いから、最初から「趣味ですから」と逃げ道を作っていたのかもしれません。
でも、誰に「そんなのやって何になるの?」と笑われてもいいし、時間をかけたのに上手くいかなくて、悔しくて涙を流す日があるかもしれない。けれど、他の誰でもない自分の意思で「やる」と決めたことに対しては、もっと泥臭く、みっともないくらい真剣に、自分の持てる熱量を全部注いでみたいと思います。
人生のどこかに、自分だけの「マイ・W杯」を
「時間があればやる」ではなく、「時間を無理やりにでもこじ開けてやる」。 ロナウド選手が最高のプレーのために大好きなコーラを我慢して食事を制限するように、私も「なんとなくダラダラとスマホを見て夜更かしする時間」を制限して、パソコンの前に座る。自分が主役になれる大切な場所だからこそ、プロのような覚悟を持って、本気の熱量で向き合ってみたいのです。
大人になってからの毎日は、放っておくと驚くほどマッハのスピードで過ぎ去っていきます。ぼんやり生きていると、4年なんて本当に一瞬です。
次にワールドカップが開催される4年後、私はどんな4年間を過ごしてきたと、自分の胸を張って言えるでしょうか。相変わらず夫の横で、「仕事辞めたいな、明日会社行くの嫌だな」と思いながら、他人の熱狂をただ画面越しに眺めているだけでしょうか。
それとも、自分なりの「マイ・W杯」のピッチに立って、泥だらけになりながら、失敗して悔し涙を流すくらい、全力で前に進めた自分に出会えているでしょうか。
激闘を終えて、すべてを出し切ったからこそ美しい涙を流したレジェンドたちへの最大のリスペクトを胸に。私は今日、いつものぬるま湯のような毎日に、ほんの少しだけ熱い一歩を踏み出してみようと思います。
まずは、いつもなら「疲れたから明日でいっか」と閉じていたパソコンを開いて、ずっと後回しにしていた、新しい記事の熱い1行目を書き始めることから、始めてみます。
